学校や刑務所や施設のように配置された家、名前、番号(配置)、時間割、規則、規律(活動の規制)、レベルや階層の編成、そしてそれらを統合あるいは構築する組み立て、報酬、懲罰(規格化)、検査、観察、報告(監視)、、、、街全体が、社会全体が資本の諸条件として、道具や商品として人間を客体化し管理・経営される巨大なシステムやその神話として、整備されたカルト的世界。科学的な社会なんかではなく、ある意味歴史上もっとも宗教的で本質的な形而上学あるいは神学の黄金期が今といってもいい。 この神話の中で、ひろゆきでもトランプでも安倍晋三でも山本太郎でも石丸伸二でも誰でもいいが、とにかく神話の前においては、彼らは神の儀式を執り行い、苦しむ信者や畜群を騙して搾取する神官や司祭や神父に過ぎない。彼らはアイコンであって、システムそのもの、神話そのものではない。故に、彼らが死のうが生きようが世界や神話にとってなんら影響がない。個人としての私たちはさらに無力で、蟻がつぶれて死んだ程度の影響しかない





実態が明らかでない、実体のない、ローカルなお祭りや神話で人や社会や国家やメディアが左右される他方で、それらは富や資本の利益や利害の関係性や構造を産み、再生産する。 このように極端に資本主義化されていくカルト的世界のなかにおいては、人の愛情や情報や記号や同一性や個性は金融商品のように、資本という神話ないしは構造の諸条件として合理的に経営され、そうした権力を中心点としてすべてが整えられ、統制ないしは統合され、または排除排斥排他する形であらゆる現象を客体化されていく。 その世界において、もはや人はいるようでいない。人の形をしたなにかー怪物ー。しかし怪物はそれ単体で神の如く君臨し得ない。それは物語、つまり(社会)契約の限りで存在する。怪物の条件として人を解剖し、作り替えて、巻き込み、駆り立て、構築した。深淵の奥底に、始まりも終わりもない、永劫回帰する神話を、地上において神を除いてかなうものがない人工の怪物を。すでに死んでいながらも生きている、生かすために殺す、存在しないからこそ存在する、存在可能な矛盾





『性的欲望の装置』より引用 権力とは手に入れることができるような、奪って得られるような、分割されるような何物か、人が保有したり手放したりするような何物かではない。 権力は、無数の点を出発点として、不平等かつ稼働的なゲームの中で行使されるのだということ。 ?権力の関係は他の形の関係(経済プロセス、知識の関係、性的関係)に対して外在的な位置にあるものではなく、それらに内在するものだということ。 そこに生じる分割、不平等、不均衡の直接的結果としての作用であり、また相互的に、これらの差異化構造の内的条件となる。 権力の関係は、単に禁止や拒絶の役割を担わされた上部構造の位置にはない。それが働く場所で直接的に生産的役割を持っているのだ。 ?権力は下からくるということ。すなわち、権力の関係の原理には、一般的な母型として、支配するものと支配されるものという二項的かつ相対的な対立はない。 その二項対立が上から下へ、ますます局限された集団へと及んで、ついに社会体の深部にまで至るといった運動もないのである。むしろ次のように想定すべきなのだ、 すなわち生産の機関、家族、局限された集団、諸制度の中で形成された作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだと。 このような効果が、そこで、局地的対決を貫き、それを結びつける全般的な力線を形作る。 もちろん、その代わりに、これら断層の効果は、局地的対決に働きかけて、再分配し、列に整え、均質化し、系の調整をし、収斂させる。大規模な支配とは、 これらすべての対決の強度が、継続して支える支配権の作用=結果なのである。 権力の関係は、意図的であると同時に、非ー主観的であること。事実としてそれが理解可能なのは、それを「説明して」くれるような別の決定機関の、因果関係における作用であるからではなく、 それが隅から隅まで計算に貫かれているからである。一連の目標と目的なしに行使される権力はない。 しかしそれは、権力が個人である主体=主観の選択あるいは決定に由来することを意味しない。権力の合理性をつかさどる司令部のようなものを求めるのはやめよう。 統治する階級も、国家の諸機関を統治する集団も、最も重要な経済的決定をする人々も、 一社会において機能し(そしてその社会を機能させている)権力の網目の総体を管理・運営することはない。権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、 それが書き込まれる特定のレベルで屡々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、 その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼び合い、増大しあい、己れの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。 そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表したものもほとんどいない。 ということが生ずるのだ。無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略の持つ暗黙の性格であって、そのような戦略が多弁な戦術を調整するが、その「発明者」あるいは責任者は、 屡々偽善的な性格を全く欠いているのだ。 ?権力のある所には抵抗があること、そしてそれにもかかわらず、というかむしろまさにその故に、抵抗は権力に対して外側に位するものでは決してないということ。 人は必然的に権力の「中に」いて、権力から「逃れる」ことはなく、権力に対する絶対的外部というものはない、なぜなら人は否応なしに法に従属させられているから、 というべきであろうか。それとも歴史は理性の詐術であり、権力のほうは歴史の詐術だが、これはいつも勝負に勝つものだと。それは権力の関係の持つ厳密に関係的な性格を無視するものだ。 権力の関係は、無数の多様な抵抗店との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。 これらの抵抗点は、権力の網の目の中には至る所に現前している。権力に対して、偉大な(拒絶)の場が一つ?犯行の魂、すべての叛乱の中心、革命家の純粋な掟といったもの があるわけではない。そうではなくて、複数の抵抗があって、それらがすべて特殊事件なのである。 可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している、 這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。 しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印に過ぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。抵抗は、 いくつかの異質な原理に属するものではない。しかしそれにもかかわらず、必然的に失敗する囮あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係におけるもう一方の項であり、 そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それゆえ、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目。その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、 強度を持って散らばされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的断絶であり、 大々的な二項対立的分割であろうか。屡々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移り刻み、形を作り直し、個人の中に、 その身体とその魂の内部に、それ以上は切り詰めることのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、 しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである。そしておそらく、 これら抵抗点の戦略的コード化が、革命を可能にするのだ、いささか、国家が権力の関係の制度的統合の上に成り立っているように。





『性的欲望の装置』より引用  権力の用い方と、欲望との関係で権力に認める位置とに従って、二つの相対する結果を招く。すなわち欲望に対して権力が外的な介入力しかもっていなかったとするならば「解放」の約束であり、あるいは権力が欲望そのものを構成するものであるならば、いずれにしてもあなた方はすでに罠にかけられているという肯定である。それにこの表象形式は性に対する権力の関係を問う政治的分析の中に見出されるものであるし、おそらくそれは、西洋世界の歴史に深く根を下ろしたものなのである。 その主要な特徴のいくつかを上げれば次の通りである。「以下はフーコーが否定しようとする権力の表象である」 ー否定的な関係ー 権力と性の間には常に否定的な関係しか成立させない。拒絶、排除、拒否、妨害、あるいは隠ぺいまたは仮面がそれだ。権力は性と快楽について否ということ以外は何も「でき」ない。権力が何かを産みだすとしたら、それは不在と欠如だけである。権力は様々な要素を除去し、様々な不連続性を導入し、結びついていたものを切り離し、境界を画す。その作用は、限界と欠如という一般的な形をとるのである。 ー規律の決定機関ー 権力とは、本質的に、性に対して己が法を課するものであるはずだ、。その意味するところは、まず第一に、性は権力によって二項対立の関係に置かれているということだ。合法と非合法、許可されたものと禁じられたものである。次いで、権力は、性に対して、同時に理解可能性の形態としても機能すべき一つの「秩序」を課する。性は法に対する己が関係を出発点にして自らを解読するのだ。そして最後に、権力は規律を宣言することによって働きかける。性に対する権力の介入は、言語によってなされる、というかむしろ、それがまさに言説として発せられるという事実によって、一つの法律状態を作り出すような言説行為を通じてなされるだろう。権力が語る、するとそれは規律なのだ。権力の純粋形態を人は、立法化の機能の中に見出すはずだ。そしてその行動様式は、性に対して、法律的ー言説的な形のものであるはずだ。 ー禁忌のサイクルー 近づいてはならぬ、触れてはならぬ、味わってはならぬ、快楽を覚えてはならぬ、語ってはならぬ、姿を見せてはならぬ、極言すれば存在してはならぬのだ。闇と秘密の中でなければ。性に対して権力は、ただ禁止法のみを働かせるはずだ。その目的とは、性が自分自身を放棄すること。その道具とは、性の消去にほかならぬ罰という強迫である。汝自身を放棄せよ、違反すれば消去されよう。消されるのが嫌ならば、姿を見せるな。お前の存在は、ただお前の廃絶によってのみ保たれるだろう。権力が性を拘束するのは、まさに禁忌によって、二つの非存在の間でなされるべき二者択一を弄ぶ禁忌によってなのである。 ー検問の論理ー この禁止は、三つの形態をとると想定されている。それは許されていないと主張すること、それが言われるのを防ぐこと、それが存在するのを否定すること、である。どうみても両立させるのが難しい形態だ。しかしまさにそこに、検問のメカニズムの特徴となるはずの一種の連鎖的論理が想定されたのである。その論理は、存在しないもの、非合法なもの、言葉に表せぬものを、それぞれが他の物の原理であり結果であるような仕方で結び合わせるのだ。禁じられているものについて、それが現実の世界で廃絶されてしまうまでは語ってはならない。存在しないものは、いかなる出現の権利もない。その非存在を語る言葉の次元においてさえもである。沈黙させるべきものは、優れて禁じられたものとして、現実の世界から追放されている。性に対する権力の論理とは、こうして非存在と非出現と沈黙の命令として表明さるべき一つの法の逆説的論理となるはずだ。 ー装置の統一性ー 性に対する権力は、すべての水準で同一の仕方で行使されるだろう。上から下へ、総合的決定においても毛細血管的末端の介入においても、権力が支えを見出す機関あるいは制度がどのようなものであっても、権力は一様な一塊のものとして働きかけるだろう。それは、法と禁忌と検問という単純かつ無限に繰り返される歯車仕掛けによって機能するだろう。国家から家族に至るまで、王侯から父に、裁判所から日常の些細な罰金に、社会的支配の諸決定機関から従属者(としての主体)そのものを成立させている諸構造に至るまで、同一の権力の一般的形態が、ただ規模だけが異なって見出されるにすぎないと。その形態とは、合法と非合法、侵犯と刑罰のゲームを伴う法律である。それに法律を定める王の形を与えようと、禁ずる父親、沈黙を課する検問官、あるいは法を主張する主人の形を与えようと、要するに人は、権力というものを法律的な形態のもとに図式化している。そしてその作用を、服従という形で定義しているのだ。法である権力と向かい合って、隷属体ー「隷属させられたもの」ーとして成立させられた主体は、服従するものに他ならない。これらの決定機関を通じて権力の形態的同質性というものには、権力が拘束する者におけるー王を前にした臣下であれ、国家を前にした市民であれ、親たちを前にした子供であれ、師を前にした弟子であれー従属の一般的形態が照応するはずである。立法する権力が一方にあり、他方には服従する主体があるのだ。 省略 権力については法律的権利のシステムにも法の形態にも依存しない分析原理を見つけざるを得ないようにしているのではないか。したがって問題は二重である。権力についての別の論理を手に入れることによって、別の歴史の読解梯子を造ると同時に、歴史の材料を、僅かに近づいてみることによって、徐々に、権力の別のとらえ方へと進むことである。同時に、法なしで性を、王なしで権力を考えることだ。




「死に対する権利と生に対する権利」より引用  長いあいだ、君主の至上権を特徴づける特権の一つは、生と死に対する権利〔生殺与奪の権〕であった。おそらくそれは形の上では、ローマの家父長に奴隷の命と同じく彼の子供の命を「自由に扱う」権利を与えていた古き 《家父長ノ権》に発しているのであろう。彼は子供たちに命を「与えた」 のであるから、それを彼らから取り返すこともできたのだ。古典期の理論家たちにおいて表現を見る生と死に対する権利は、すでにかなり和らげられたものである。 君主から臣下へと、その権利が絶対的かつ無条件に行使されるとはもはや考えられておらず、 ただ君主がその生存において脅やかされている場合にのみ行使される。 一種の反論の権利である。彼を転覆させ、あるいはその権利に異議をさしはさもうとする外敵によって、彼が脅やかされたとする。その時、彼は正当に戦争をすることができるし 、彼の臣下に命じて、国家の防衛に参加させることができる。 「直接に彼らの死を自 分のために想定する」ことなしに、「彼らの生命を危険にさらす」ことは彼にとって正当なのである。 この意味で彼は臣下に対し、生と死に対する「間接的な」権利を行使することになる。もし臣下の一人が彼に反抗して彼の権利を妨害するとしたなら、 その時彼はその男の生命に対して直接的な権力を行使することができる。刑罰という形で、彼はその男を殺すだろう。このように考えられた生と死に対する権利は、 もはや絶対的な特権ではない。それは君主の自衛によって条件づけられているし、彼の生存する条件そのものである。それをホッブスにならって 、自分の生命を他者の生命を犠牲にしても守るというすべての人間が自然状態でもっているはずの権利を君主に置きかえたもの、と考えるべきだろうか。 それともそこに主権者というあの新しい法律的存在の形成と共に出現する特殊な権利を見るべきであろうか。いずれにせよ、生と死に対する権利は、 このような相対的かつ限定された近代的形態においても、古の絶対的な形 態におけると同様に、不均斉な権利である。主権者=君主はそこでは生に対するその権利を、ただ殺す権利を機能させることによって行使するか、あるいはそれを控えるかである。 彼は生に対する彼の権力を、彼が要求し得る死によってのみ明らかにする。「生と死の」という形で表わされている権利は、実は死なせるか、それとも生きるままにしておくかの権利である。 結局のところ、それは剣によって象徴される。そしておそらくは、 このような法的形態を歴史的な社会の一典型へと関係づけてみなければならないのだ、すなわち、権力が本質的に、徴収の機関、窃取のメカニズム、 富の分け前を専有する権利、臣下から生産物と財産と奉仕と労働と血を強奪するという形で行使される社会である。権力とはそこでは何よりもまず掌握の権利である。 事物に対し、時間に対し、身体に対し、そして最終的には生命に対して。それは頂点として、生命を掌握してそれを抹殺するという特権の形をとったのである。 ところで西洋世界は古典主義の時代以降、このような権力のメカニズムに極めて深い変更を蒙ってきた。「徴収」は、権力の重要な形態であることをやめて、 権力が服従させる力に対する唆かし、強化、管理、監視、増大、組織化といった諸機能をもつ様々な他の部品の中の一つにすぎなくなる傾向にある。様々な力を産出し、 それらを増大させ、それらを整えるためであって、それらを阻止し、抑えつけ、あるいは破壊するためではないような一つの権力である。死に対する権利は、 その時から、生命を経営・管理する権力の要請の上に移行するか、少なくともそのような要請に支えを見出だし、その求めるところのものを中心に整えられるという傾向をもつようになるだろう。 君主のもつ自衛する権利、あるいは人々に君主を守れと要求するその権利の上に成り立っていたこの死は、今や、社会体にとって、己が生命を保証し、保持し、発展させるための 権利の、単なる裏面として立ち現われることになるだろう。かつて十九世紀以降の時代ほどに戦争が血醒かったことはなかったし、また、勿論あらゆる差異を考慮にいれての話だが、 それ以前には、かつて体制が自分たちの住民に対してこれほどの大量殺戮を行ったことはなかった。しかしこのような死に対する途方もない権力は――そしてこれが権力にその力の重要な部分と、 またその限界をあれほどまでに拡張したその厚顔無恥を可能にしているものだが――今や生命に対して積極的に働きかける権力、生命を経営・管理し、増大させ、増殖させ、 生命に対して厳密な管理統制と全体的な調整とを及ぼそうと企てる権力の補完物となるのである。戦争はもはや、守護すべき君主の名においてなされるのではない。 国民全体の生存の名においてなされるのだ。 住民全体が、彼らの生存の必要の名において殺し合うように訓練されるのだ。大量虐殺は死活の問題となる。まさに生命と生存[生き残ること〕の、 身体と種族の経営・管理者として、あれほど多くの政府があれほど多くの戦争をし、あれほど多くの人間を殺させたのだ。 そしてこの輪を閉じることを可能にする逆転によって、 戦争のテクノロジーが戦争を戦争の徹底的破壊へと転じさせればさせるだけ、事実、戦争を開始しまたそれを終わらせることになる決定は、 生き残れるかどうかというむき出しな問いをめぐってなされるようになる。核兵器下の状況は、今日、このプロセスの到達点に位する。 一つの国民全員を死にさらすという権力は、もう一つの国民に生存し続けること を保証する権力の裏側に他ならない。生き残るためには敵を殺すという、白兵戦の戦術を支えていた原理は、今や国家間の戦略の原理となった。 しかしそこで生存が問題になるのは、もはや主権の法的な存在ではなく、一つの国民の生物学的な存在である。民族抹殺がまさに近代的権力の夢であるのは、 古き〈殺す権利〉への今日的回帰ではない。そうではなくて、権力というものが、生命と種と種族というレベル、人口という厖大な問題のレベルに位置し、かつ行使されるからである。 私は別のレベルで、死刑を例にとることもできただろう。 死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。 それは、君主の意志、その法、その人格に危害を加える者に対する君主の対応をなしていた。 死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、 ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、 死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、 生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。 このような権力にとって死刑の執行は、 同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、 犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。 他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。 死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた、と言ってもよい。 死に伴う儀式が近年廃ってきたということに示される死の価値下落も、恐らくこのようにして説明されるだろう。死をうまくかわすためにする努力は、 我々の社会にとって死を耐え難いものとしている新しい不安に結ばれているというよりは、むしろ、権力の手続きがひたすら死から目を外そうとしてきたことにつながっている。 一つの世界からもう一つの世界へと移ることで、死とは、地上的主権にもう一つの、奇妙にもより強大な主権が取ってかわることだった。死を取りまく豪奢は、政治的典礼に属していた。 今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。 死は権力の限界であり、権力の手には捉えられぬ時点である。 死は人間存在の最も秘密な点、最も「私的な」点である。自殺がかつては罪であった、というのも、地上世界の君主であれ彼岸の君主であれ、君主だけが行使する権利のあった死に対する権利を、 まさに彼から不当に奪う一つのやり方であったからだが――十九世紀に、社会学的分析の場に入った最初の行動の一つであったというのは驚くに当らない。 それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。この死への固執という、 いかにも奇怪だがしかしそれにもかかわらずその発現において極めて規則的かつ恒常的であり、従って単なる個人的特殊事情とか事故というのでは説明できないもの、 それは、政治権力が自らの務めとして生を経営・管理することを掲げるに至った社会にとって最初の驚きの一つだったのである。具体的には、生に対するこの権力は、 十七世紀以来二つの主要な形態において発展してきた。 その二つは相容れないものではなく、むしろ、中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極を構成している。その極の一つは、最初に形成されたと思われるものだが、 機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、 こういったすべてを保証したのは、規律を特徴づけている権力の手続き、すなわち人間の身体の解剖-政治学〔解剖学的政治学] であった。第二の極は、やや遅れて、 十八世紀中葉に形成されたが、種である身体、生物の力学に貫かれ、生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは、一連の介入と、調整する管理であり、すなわち人口の生政治学[生に基づく政治学]である。 身体に関わる規律と人口の調整とは、生に対する権力の組織化が展開する二つの極である。 古典主義の時代において、このような二重の顔立ちをもつ巨大なテクノロジーが解剖学的でかつ生物学的であり、個別化すると同時に概念に従って分類する、身体の技能的成果へ向かうと同時に生のプロセスそのものを見ようとするものとして設置されたという事実、それは至高の機能が爾後はおそらくもはや殺すことにはなく、隈なく生を取り込むことにあるような一つの権力の特徴を雄弁に語るものに他ならない。 君主の権力がそこに象徴されていた死に基づく古き権力は、今や身体の行政管理と生の勘定高い経営によって注意深く覆われてしまった。古典主義の時代における様々な規律制度ーー学校とか学寮、兵営、工房といったものーー急速な発展である。同時にまた、政治の実践や経済の考察の場で、出生率、長寿、公衆衛生、住居、移住といった問題が出現する。つまり、身体の隷属の急速な発展である。同時にまた、政治の実践や経済の考化と住民の管理を手に入れるための多様かつ無数の技術の爆発的出現である。こうして「生-権力」[人間の生に中心を置いた権力]の時代が始まるのだ。その発展を見る二つの方向は、十八世紀にはなお明確 に区別されたものとして立ち現われている。 規律の側には、軍隊や学校といった制度がある。戦術について、技能習得について、教育について、社会の秩序についての反省である。それはド・サックス元帥の純粋に軍事的分析から、ギベールやセルヴァンの政治的な夢想までを含む。 住民=人口の調整の側にあるのは、人口統計学であり、収入と住民の関係の算定であり、富とその循環の、生とその確率的長さの図表化であり、つまりケネー、モオー、シュスミルヒである。「観念学派」の哲学という、観念と記号の、そして感覚の個体的生成の理論であると同時に、利潤の社会的構成の理論でもあったもの、すなわち、「観念学」という、技術習得の理論であると共に契約ならびに社会集団の調整された形成の理論でもあるものが、おそらく、これら二つの権力技 術を整合させ、その一般理論を作り出そうと企てた抽象的言説を構成する。事実、これらの権力 技術の関わりあいは、思弁的言説のレベルではなされず、具体的な構成・配備の形でなされるのだし、これがやがて十九世紀における権力の巨大なテクノロジーを形成することとなるのだ。性的欲望の装置は、このような具体的な構成=配備の一つであり、しかも最も重要なものの一つとなるのである。 このような〈生権力〉は、疑う余地もなく、資本主義の発達に不可欠の要因であった。資本主義が保証されてきたのは、ただ、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払ってのみ、そして人口現象を経済的プロセスにはめ込むという代償によってのみなのであった。しかし資本主義はそれ以上のことを要求した。資本主義にとっては、このどちらもが成長・増大することが、その強化と同時にその使用可能性と従順さとが必要だった。資本主義に必要だったのは、力と適応能力と一般に生を増大させつつも、しかもそれらの隷属化をより困難にせずにすむような、そういう権力の方法だったのである。権力の制度としての国家的大機関の発達が生産関係の保持を保証したとするなら、〈解剖学的で生に基づく政治学〉の基本は十八世紀に権力の技術として発明されたものであり、この技術は社会体のすべてのレベルに存在し、かつ極め て多様な制度によって用いられていたが(家族と軍隊、学校と警察、個人に関わる医学と集団の行政管理のいずれでもだ)―経済的なプロセス、その展開、そこに実現されそれを支えている力といったもののレベルで働いていたのである。そのような政治学の基本はまた、社会的差別と階層化の要因としても作動したのであり、それぞれの階層の力に働きかけ、支配の関係と覇権の作用とを保証したのだ。 人間の蓄積を資本の蓄積に合わせる、人間集団の増大を生産力の拡大と組み合わせる、利潤を差別的に配分する、この三つの操作は、多様な形態と多様な手法に基づく<生権力〉の行使によって、ある部分では可能になったことだ。生きた身体の取り込み、その価値付与、その力の配分的経営、これらはこの時点で不可欠なものだった。 資本主義の形成初期に、禁欲的道徳が果したと推定される役割については、周知の如く幾度となく議論がなされてきた。しかし十八世紀に西洋世界のある国々で起き、資本主義の発達によって結びつけられていったことは、身体を無価値なものと見做すかのようなこの新しい道徳とは異なるものであるし、おそらく遥かに大きな拡がりをもつものだ。それは歴史の中への生命の登場に他ならず―つまり知と権力の次元に人間という種の生命に固有な現象が登場したということであり政治の技術の領域へのその登場だったのである。この時点で生命と歴史との最初の接触が起きたのだなどと主張するのではない。反対に、歴史のベクトルに対する生命のベクトルの圧力は、何千年にもわたって常に極めて強いものだった。疫病と饑饉がこの関係の劇的な二つの 大きな形態であったし、こうしてこの関係は死の徴の下に置かれていた。循環的なプロセスによって、十八世紀における経済の発展、特に農業の発展と、人口の増大よりも更に急速であった生産性と資源の増大(それが人口の増大を進めていたのだが)のおかげで、この深く根をおろした脅威は多少は緩むこととなった。磯餓とペストの跳梁する時代はいくつかの再発例を除けばフランス大革命の前に終わっていた。死はすでに、直接に生を攻め立てることを止めるようになっている。しかしそれと同時に、一般に生命に関する知識の発達と、農業技術の改良、ならびに、人間の生命とその存続を対象とする観察や方策が、このような緩和の傾向に貢献していた。 生命に対する相対的な統御が、死の切迫した脅威のいくつかを遠ざけていたのだ。このようにして手に入った作動の空間で、その空間を組織しつつまた拡大しつつ、知と権力の手法は、生のプロセスを自分の問題として取り上げ、それを管理し変更することを企てる。西洋的人間は次第次第に学ぶのだ、生きている世界の中で生きている種であるとは如何なることか、身体をもつとは、存在の条件を、生の確率を、個人的・集団的健康を、変更可能な力を、その力を最も適した形で配分し得る空間をもつとは、如何なることであるのかを。恐らく歴史上初めて、生命の問題が政治の問題に反映される。生きるという現実は、もはや死の偶然とその宿命の中で時々浮上してくるにすぎない手の届かぬ基底といったものではなくなる。それは部分的には、知の管理と権力の介入の場へと移るのだ。権力が対象とするのは、もはや、それに対する権力の最終的な支配=掌 握が死によって表わされるような権利上の臣下ではなく、生きた存在となるのであり、彼らに対して権力が行使し得る支配=掌握は、生命そのもののレベルに位置づけられるべきものとなる。生命を引き受けることが、殺害の脅迫以上に、権力をして身体にまでその手を延ばすことを可能にするのだ。生に固有の運動と歴史の様々なプロセスが互いに干渉し合う際の圧力現象を「生-歴史」と呼ぶことができるならば、生とそのメカニズムをあからさまな計算の領域に登場させ、〈知である権力〉を人間の生の変形の担い手に仕立てるものを表わすためには、「生政治学」を語らねばなるまい。それは、生が余すところなく、生を支配し経営する技術に組み込まれたということでは毫もない。生は絶えずそこから逃れ去るのだ。西洋世界の外では、饑饉は常に存在す るし、しかもかつてないほど深刻なスケールで存在している。そして人類という種が蒙る生物学的危険は、微生物学誕生の前よりおそらく大きいし、少なくともより深刻である。しかし一社会の「生物学的近代性の閾」と呼び得るものは、まさに人間という種がこれ自身の政治的戦略の中にその賭金=目的として入る時点に位する。人間は数千年のあいだ、アリストテレスにとってそうであったもののままでいた。すなわち、生きた動物であり、しかも政治的存在であり得る動物である。近代の人間とは、己が政治の内部で、彼の生きて存在する生そのものが問題とされるような、そういう動物なのである。 この変化は極めて重要な結果をもたらした。ここで、科学的言説の体制にその時生じた断絶や、生ならびに人間という二重の問題設定が古典主義時代のエピステーメーの秩序を横切り、それを再配分したやり方について今更強調する必要はないだろう。人間という問いが提出されたが――しかも生きているものとしてのその特殊性と、生きているものたちとの関係におけるその特殊性においてだ――その理由は歴史と生の新しい関係方式の中に求めなければならない。生が置かれているこの二重の位置においてであり、この二重の位置とは、生を歴史の生物学的周縁として歴史の外部に置くと同時に、人間の歴史性がもつ知と権力に貫かれたものとして、生を人間の歴史性の内部に置くものなのである。また政治のテクノロジーの増殖についても、強調する必要はないだろう、いかにもそれは、そこ〔歴史と生の新しい関係方式〕から身体を、健康を、食事や住居のあり方を、生活条件を、人間が生きる上での空間の全体を、己が目的に取り込んでいくからである。〈生権力〉のこのような発達のもう一つの結果は、常態というものの働き=規準が、法のもつ法律的システムを犠牲にしていよいよ重要になったことである。法は武装しないでいることはあり得ないのであって、その武器の最たるものは死である。法を侵犯する者たちに対して、法は、少なくとも最後の手段としては、この絶対的脅迫によって答える。法は常に剣を用いるのだ。しかし生を引き受けることを務めとした権力は、持続的で調整作用をもち矯正的に働くメカニズム を必要とするはずだ。もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となるのだ。このような権力は、殺戮者としてのその輝きにおいて姿を見せるよりは、資格を定め、測定し、評価し、上下関係に配分する作業をしなければならぬ。 服従する臣下から、君主の敵を切り離す線を引く必要はない。規準となる常態のまわりに配分する作業をするのだ。私は、法が消え去るとも、裁判の諸制度が消滅する傾向にあるとも言うつもりはない。そうではなくて、法はいよいよ常態=規準として機能するということであり、法律制度は、調整機能を専らとする一連の機関(医学的、行政的等々の)の連続体にますます組み込まれていくということなのだ。正常化を旨とする社会は、生に中心を置いた権カテクノロジーの生み出す歴史的な作用=結果なのである。十八世紀まで我々が知っていた社会に対して、我々は法律的なベクトルが退行する段階に入っている。フランス大革命以後、世界中で書かれた憲法や、作成されては訂正されてきたすべての法典、不断の、かつ喧騒に満ちた立法上の活動のすべてについて、錯覚してはいけない。それらはすべて、本質的に正常化機能を使命とする権力を、受け入れられるものにするための形式にすぎないのであるから。しかも、十九世紀にはなお新しいものであったこのような権力に対して抵抗する力は、まさにこの権力が資本として用いたそのものに支えを見出だした。つまり人間が生物である限りの生と人間にである。 前世紀以来、権力の全般的システムを問題にするような大きな闘争は、古き権利への回帰の名においてはもはやなされないし、あるいは多くの時代とその後に来る黄金時代のサイクルという数千年にわたる夢との関係においてはなされないのだ。人々はもはや貧しき者たちの皇帝も、終末の時の王国も待たないし、太古からの夢だと想像される単なる正義の回復さえも期待はしない。要求され、目標の役割を果すものは、根源的な欲求であり人間の具体的な本質として、彼の潜在的な力の成就であり可能なものの充満として了解された生である。それがユートピアであるかないかはさして問題ではない。そこには極めて現実的な闘争のプロセスがある。政 治的対象としての生は、ある意味では文字通りに受け取られて、それを管理しようと企てていたシステムに逆らうべく逆転させられるのだ。権利よりも遥かに生のほうが、その時、政治的闘争の賭金=目的となったのであり、それはこの闘争が権利の確立を通じて主張されたとしても変わりはない。生命への、身体への、健康への、幸福への、欲求の満足への「権利」、あらゆる弾圧や「疎外」を越えて、人がそうであるところのもの、人がそうありうるところのすべてを再発見する「権利」、古典的な法律体系にはかくも理解を超えた「権利」、それはこのような権力の新しいやり方のすべてに対する政治的対応であったが、しかしこの権力のやり方自体が、そもそも主権という伝統的権利に基づくものではないのである。





対象a(対象関係論) 非実在の自己自身=対象a≠不条理な実在 基本的な規定としては、「欲望の原因としての対象」。 初期の理論での小文字の他者、および、クラインの部分対象、ウィニコットの移行対象など対象関係論における対象概念が背景にある。 他人の中に埋め込まれ、私にとって非人間的で疎遠で、鏡に映りそうで映らず、それでいて確実に私の一部で、私が私を人間だと規定するに際して、私が根拠としてそこにしがみついているようなもの、これをラカンの用語で「対象a」と言う。対象aの代表格は、乳房、糞便、声、まなざしの四つ組である。 ここで言われている、「失われた対象としての眼差し」とは何を意味するのだろうか。ラカンによれば、眼差しはそれ自身のなかに対象「a」を含み持っている注3。対象「a」とは、ラカンの定式において欠如の象徴を表す記号である。たとえば口唇期においてはそれは乳房となり、肛門期においては排泄の等価物となる。対象「a」は、欲望の中心にある欠如の代理作用をするが、その一方で欲望の対象が永遠に失われていること、その「不在」を常に指し示すのである。したがってラカンのいう「眼差し」と、身体的器官としての肉眼を同一視することはできない。ラカンは例として、動物における擬態、とりわけ昆虫などにみられる眼状斑を引き合いに出している。目の機能を思わせるこの模様は、しかしただのシミでしかない。それにも関わらず、このシミはそれを見る主体に「見られている」という感覚を呼び起こす。つまり、わたしたちは目の機能としての「知覚すること」ではなく、眼差しそのものを欲望し、また同時に掻き立てるのであるが、その交錯の基底には対象の不在が横たわっているのである。 この「何でもないもの」、我々が決定的答えとして求めてやまないにも関わらず、常に逃げ去り、ただ空虚な痕跡としてしか手にできないもの、それがラカンのタームで対象aと呼ばれるものである。 単なる事実以上の何かを孕んでいるという不確定な過剰さを喚起するもの。 “自らの世界の中に象徴化された欲望の対象の痕跡” “満たされない欲動の向かうところ” 対象aのまなざしの例 暗い部屋に一人入り、誰かの視線を感じてハッと振り返る。何かが光った気がした。が、良く見てみると、それは鏡であり、誰かが見ていると思ったのは、鏡に映った自分の視線だったのだ。この「なんだ、私か」と気付く一瞬前の輝き、それが眼差しである。 欲望の軸にある対象の不在、その不在、欠如をaと表現する 他人に映った自分(対象a) メモ 1.生のはじめから破壊衝動が対象に向かい、まず最初に母親の乳房に対する口愛的サディズム的攻撃として表される。 2.攻撃が肛門的および尿道的衝動から生じ、危険物、排泄物を自分の中から追い出し、母親の中へ追いやろうとする肛門的サディズム衝動 憎悪を持って追放されたこれらの有害な排泄物と共に、自我の分裂排除された部分は母親の上に投影されるというより、母親の中に投影されるというべきであろう。母親は分離した個体として感じられず、むしろその悪い自己として感じられる。→投影性同一視(2.肛門的サディズム衝動)





神の逆説的行為遂行性やその摂理は人間の永遠の嘘と契約であるが、同時にそれが社会的諸生産関係に基づく所与である限り 弁証法的な止揚の必然的な帰結を証左する





神は、何者にもまして制約された存在である。奴隷の中の奴隷、みずからの属性に囚われ、「神とは何か」に縛られた囚人だ。人間はまったく逆で、存在の根を欠き、借り物の実存しか持たず、その贋の実在性の中で動き回る分だけ、なにがしかのゆとりを享受している。 契約や権力の神話は始まりと終わりのない永久機関のような永劫回帰と、物事の矛盾と疎外と倒錯の行為遂行の逆説によって、沈黙や虚無のなかで君臨し得る。 神の逆説的行為遂行性やその摂理による包摂は人間の永遠の嘘による幻想と契約であるが、同時にそれが社会的諸生産関係に基づく所与である限り、弁証法的な止揚の必然的な帰結を証明し担保する 神は存在しないゆえに、存在し得る 「国民の幻覚の幸福としての宗教の廃止は国民の現実的な幸福の要求である。国民の状態に関して幻覚を捨てるよう要求することは、幻覚を必要とする状態をやめるよう要求することである。ゆえに宗教の批判は萌芽では、神聖な光が宗教である涙の谷の批判である。  批判が鎖から想像上の花々を引き裂いたのは、人間が空想なき、慰安なき鎖を身にまとうためではなく、鎖を投げ捨て、生き生きした花を摘むためであった。宗教の批判が人間たちを失望させるのは、理性に戻った人間のように人間が考え、行動し、失望し、自分の現実を形成するためであり、人間が自分自身の周りを回るため、そして自分の現実的な太陽の周りを回るためである。宗教は、人間が自分自身の周りを回らない限り、人間の周りを回る、単なる幻覚の太陽に過ぎない。 ゆえに真実の向こう側が消えた後に、こちら側の真実を確立することが歴史の使命である。人間的自己疎外の神聖な形態を暴露した後に、自己疎外をその非神聖な形態において暴露することが、さしあたり、歴史の役に立っている哲学の使命である。これによって、天の批判は地上の批判に、宗教の批判は法の批判に、神学の批判は政治の批判に変わる。」 「もし神が存在しないとすれば、神を殺すとは、存在しない神を殺すとは一体どういうことなのか。恐らく、存在しないから殺すということであると同時に、存在させないために殺すということであり、それが即ち笑いなのだ。」 「神の死とは炸裂する神の存在と神を殺す所作との奇妙な連帯でないとしたら何を意味するのか。」 「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり、言葉は神であった。 言葉は神と共にあった。 万物は言葉によって成り、言葉によらず成ったものはひとつもなかった。 言葉の内に命があり、命は人を照らす光であった。 その光は闇の中で輝き、闇が光に打ち勝つことはなかった」





家畜人達は最大多数の幸福感を求めて、システムとして、摂理として、暴力として、信仰として、愛情として、陶酔として、欲望として、畏れとして、享楽として、自らを永遠に疎外し続ける神を君臨させて、始まりも終わりもない欺瞞の循環の中で麻痺していく。「ユーフォリア」とは他方で薬学や心理学で用いられる多幸感の意味もあるが、神の見えざる手なる行為遂行は、脳に作用する薬物としての多幸感とさほど違いなどなさそうだ。 私たちのアイデンティティ、パーソナリティ、物理的な元素としての身体は構築され、内面化し、駆り立てられて、すっかり麻痺してしまった。始まりも終わりもないゆえに、もう二度と後戻りもやり直しもできない。麻痺して腐った脳みそで、何が起きているのかもわからず、死ぬしかない。例外はない 摂理の包摂、神の抱擁、システムの構築の中で多幸感のなかで 神に祈るなんて、暗闇の中でぶつぶつ独り言いってんのとかわらねぇ みんな独り言いってんだわ 知ってるか?統合や統制や包摂のまえに必ずおきる条件、それはバラバラに解剖すること、解体して分解して組みなおすこと、客体化ってそういうこと、神様が現れる前におきることは、人間を信者として変換して互換性をもたせること、変換する前に分解すること、語りえぬ沈黙に、深淵に独り言をぶつぶついう人間を量産してこそ、ごみをかき集めるように人間は神のもとに統合されて、これはほとんど摂理で、誰一人あらがえない 君たちは多幸感を得ているか?その多幸感はなんだろうか?セックスなのか?食事なのか?友達と食事をしたりゲームをしたり遊ぶことか?誰かに認められることか?誰かと自分の区別を見失うことか?ブランドもので着飾ることことか?賃金労働で自分を慰めることか?君たち、私たち家畜人に神の救済がありますように、神が憐れみてくれますように、食前と就寝前に祈るとしようバカ 死ね あぁ、、そうか 矛盾は循環なんだ、仏教では相互依存 縁起ともいうか。そうだ、矛盾の二極の関係性はすべてが循環で終わりと始まりがない、非科学的な幻想だった


永劫回帰の神話を俯瞰できない人間は、その神話を内面化し、駆り立てられて、本人の価値観や観念と関係なく、否応なく、神話の中を畜群として死ぬまで永劫回帰し続ける


人間が資源として客体化され、駆り立てられ、巻き込まれるような、資本の諸条件として経営・管理され、搾取されるということは、 上から理不尽に押し付けられるものというよりかは下(部構造)から上(部構造)から挟むような構図です。だからこそ多くの人々は何よりもまず自分を信じてあげてほしいです。





安楽死制度を法制化する声が益々増え続け、様々な国々で安楽死が制度化されているのは何も不思議なことではない。生きさせる権力の反対側の地平が死ぬ権利だからだ。資本主義の社会で富やリソースを蓄積させ、拡大するには労働力が必要であり、労働力とはすなわち「生産的な人間」だ。資本主義が発展し成長する、富を産みだしリソースを蓄積していくためにその条件としての人間を生産・客体化し、さらにその人間を生産性へと駆り立て(ゲシュテル)”生かす”必要がある。故に(資本の条件として)生かす権力は死から目を外させることを条件や手続きとした。それは同時に”生産的でない”人間を排他(死に投げ返す)もする。 したがって、資本主義的な権力のシステムの限界点は死であり、その手に据えられぬ領域であるがゆえに、”生かす”ことは”死ぬ”ことと、コインの裏表となる。 人間を労働力や富や資本の条件として経営・管理し生産的に生きさせようとする権力が拡大すればるほど、その表裏一体としての死ぬ権利(生きさせる権力の限界)もまた拡大するのは必然である。なにせ、死が「価値」や「意味」を持つのは、生きさせる権力の存在故に、その限りで依存しているからだ。


どちらにせよ主要先進国の殆どはどこも多少の差はあれど人口減少傾向に転じているのだから、社会制度を維持するために出生を推奨するのではなく、リソースを分配すれば良いだけで、これ以上人間が増えたってどちらにせよ持続性を失っていく(食料問題や環境負荷)だけでしょう "緩やかに"減少していくことはリソースの分配によって可能であるし寧ろ人間の経済活動や社会活動の縮小こそ持続性を考える上で必要。非科学的な無限増殖(経済的な成長)の幻想に虐殺や搾取でしがみつくのではなく、分配と縮小で広げた風呂敷を折り畳んでいくことが重要。どんな物質にも不変や永遠はない。 繰り返しになるが、あらゆる物質は不変でもなければ、永遠でもない。それは熱力学や相対性理論や素粒子物理学で答えられている。人間の経済活動やそのリソースも不変ではないし、永遠でもない。つまり無限ではなく、あらゆるものに限りがある。





人が死の本能、言い換えれば防衛機制的な社会契約の神話や、その逆説に駆り立てられる場合、生きたくて必死なだけ。まるで瀕死の虫みたいに。 夢や理想や空想を追い求めてばかりの人(異世界を夢見たり、非科学的な世界や原理を妄想したり、容姿やお金など現実と乖離した幻想を追いかけたり、労働や他人の感情など虚無を追い求めたり)は、生きさせる、生きる権力や前述した神話に執着する畜群に過ぎないというわけ。当たり前にこいつらはルサンチマンも拗らせてしまう





労働や資本が、無から有が生み出されて、際限がない(言い換えるなら無限に経済成長)と思ってるバカが多いとは思っていたけど、子供についても無から有が生み出され、際限がない(言い換えるなら無限に可能性がある)の認識で生きてる頭悪い人多いみたいね。何度も言うが、あらゆる物質、元素には限りがあり、有限です。




権力の限界点で、契約の神話の果てで、彼岸の岸辺で、深淵の淵で、対象の不在で、家畜小屋の外で、美味いコーヒーでも飲みながら、誰かと語らいながら、走馬灯みるみたいに眺めたかったなぁ。そんな超人が私以外にどこにいるのだろう



何十億の人々が崇め奉る社会契約と資本主義の絶大な神話によって、空からキラキラ白燐弾が落ちてきて人を溶かすなんて、ロマンチックで愚昧なことを神様もお考えになるものだ。非科学的な幻想と神話が、科学的な暴力で蹂躙する奇妙で滑稽で矛盾した光景。いつ見ても素敵だ。人間素敵。そんな頭が悪くてばかばかしい人間を愛してる


神を否定しても逆説的に神に駆り立てられるパラドクスがあるなら、論理的に神を無に帰すためには、弁証法的止揚のアプローチのほかにない。この弁証法がわからない頭の悪い人で世の中はあふれかえっているようだけど、まぁそれは世界どこでも似たようなものだから、彼ら彼女らについては、あきらめるしか仕方ない。 ひとりひとり、ゴミに説得する意味もないし、時間の無駄でしかなかろう 加えて、何度も言うけれど「神」とは、つまり社会契約。 宗教団体の崇めてる偶像とか、ファンタジーに出てくる超常的な存在の話ではなく 社会契約の話だから、勘違いしないように。とは言ってもバカにはわからない


現状の差別的に人間(女性)身体を資源として搾取し富を囲う資本主義的な出生の構造に反対しても、出生そのものを否定しないことは両立するでしょう。私は出生そのものに反対なので、私は支持してないけれど、プロナタリズムへの反対態度自体は誤った二分法的に反出生を意味するものでは当然論理的に無い


欲望のすべてが、得体のしれない神様だったとしても、基底に不在が横たわる幻想だったとしても、永遠に満たされない壁のシミだったとしても、それでも家畜を脱することができないわたしは、永遠に満たされないそれを欲しがって、愛し、愛されたいと赤ん坊みたいに泣きわめくしかできない。神様、どうかわたしを愛してください。いいや、ここで神の死を宣告するべきだ。誰もたどり着けない、誰もいない、超人の時間に向かうために

永劫回帰する(始まりと終わりがない)資本主義には善悪はない。永続の幻想や神話のたどり着く無限地獄


「私たちは死に向かって走り寄りはしない。生誕という破局からも、何とか目を背けていようとする。災害生存者というのが私たち人間の実態だが、そのことを忘れようとして七転八倒のありさまだ。死を恐れる心とは、じつは私たちの生存の第一瞬間にまでさかのぼる恐怖を、未来に投影したものにすぎない。」




すべてが果てしなく手遅れで、果てしなく操作されていて、果てしなく仕組まれていて、果てしない答えになってる。先も後もどこまでも果てしなくて何も見えないし何もわからない この、終わりと始まりがない永劫と回帰の時間や摂理を、原初社会契約の永劫回帰と定義したい。ニーチェの永劫回帰は神のなかにこそあった。そして神の外に永劫回帰はない。家畜の時間だけが永劫回帰していて、超人は神の死より新しいと同時に、神の死より古い存在になる。本当の意味での超人の時間は家畜の時間の中から、永劫回帰から外れていくことで成立するから。ニーチェは永劫回帰を得て超人に至るといっていたが、逆、まったく逆、永劫回帰から、家畜の時間から遠のいて、古くも新しい時間に、神話の外部の時間に向かっていくことこそ、真の超人



暗闇の中であたかも私がそれを欲しているかのように偽物の灯りを燈して誘ってくる神様 実際には、真実の灯りから目を逸らすために視界を暗闇で覆って、自作自演しているだけの神様 どこにも実態がない、幻想で、空虚で、不毛で、永遠に満たされない小文字の他者だけ 偽りの灯りを追い求めるのは暗い家畜小屋に見えざる手で閉じ込められた家畜達のみ 見えざる手は見えない、家畜小屋からでるのはほぼ無理、偽りかどうかもわからない灯りで照らされる深い暗闇のなかで、自分が家畜なのか、これが神の見えざる手の御業なのか、何もわからずさまようしかないのか。 始まりも終わりもなく、彼岸を超えた神話の時間